メディ・カフェ@関西HP

【終了しました】第9回メディ・カフェ@関西「看取った家族が後悔すること〜終活を自己満足で終わらせない為に〜」

6月7日(日)、大阪市肥後橋のリゾートダイニングAlbinoさんを会場に第9回メディ・カフェ@関西「看取った家族が後悔すること〜終活を自己満足で終わらせない為に〜」を開催しました。
ゲストスピーカーはメディ・カフェ最多登壇、医療問題ジャーナリスト熊田梨恵さん。
産休に入る前の最後のお仕事としてお引き受けいただきました。
長年介護や医療現場を徹底取材してこられた熊田さんが、文藝春秋5月号医療特集に掲載された記事の内容について、記事を書くに至った思いや、記事に書ききれなかったことなどを織り交ぜながら語ってくださいました。


後悔する家族

熊田さんが出会ったあるご遺族はお姑さんを見送りました。
亡くなった直後には「大往生だった」「よかったよね」「よく頑張ったよね」
そんな風にいい最期だった、と思えていたはずの気持ちがおよそ1年経った頃に「あれでよかったんだろうか」と後悔にも似た思いに変化したと言います。
「義母は本当はもっと生きたいと思っていたんじゃないだろうか…」という思い、そしてさらにそこから「お医者さんたちは本当にちゃんとやってくれたのだろうか」という思いまで生まれたと言います。
担当した医療者にとってはなんとも理不尽な言われようです。
自分たちが『自信を持って決められなかった』という思いから医療への不信までに発展してしまう。
いったいなぜ、それも1年も経過してからそんな変化が出てきてしまったのでしょう。
この出会いをきっかけに熊田さんの取材が始まります。


別のケースでは本人の「希望(想い)」を聞いていたのですが、そこでもやはり家族には「後悔」が生まれます。
本人であるお母様はお元気な頃から「長生きしなくていいから延命治療はしたくない。チューブに繋がれて生きるのはいや」というご自身の希望を話しておられました。
脳梗塞を発症し救急搬送された先で医師から飲み込みや言葉に障害が残る可能性を説明され、胃ろうの造設を勧められました。
本人が希望しなかった延命治療になるのでは、と娘さんは躊躇しますが、別の娘さんから「『延命は嫌だ』とは言っても『食べたくない』とは言っていない。お腹が空いて死ぬなんてかわいそう」と説得され、結果的には胃ろうを造設しました。
今は寝たきりの要介護5の状態で意思の疎通も難しくなったお母様の姿に「これは母が嫌がっていた延命なんじゃないか」と感じると言います。
『なぜ延命が嫌なのか、胃ろうならよかったのか、どんな治療ならしてもよかったのか』そういう根本的なことを聞けていたら違う選択をしたかもしれない、と話す娘さん。

本人の希望(想い)を聞いていなかったから後悔する、聞いていても後悔する・・・。
いったいなぜこんなことになってしまうのでしょう。どうすればよかったのでしょう。




価値観を知る

熊田さんは言います。
「大事なのは『価値観』を聞く(知る)こと」
延命は嫌だ、チューブに繋がれるのは嫌だ、、、
このとき「嫌だ」と思う理由はなにか。「嫌だ」と思う背景にあるのはなにか。

なぜ延命や臓器提供はイヤなのか。
チューブに繋がれるのはイヤって言うけど、チューブってそもそもどんなのを言ってる?チューブに流れているのは栄養? 薬? 水分? 人工呼吸器?
テレビで見たシーンに対して「こういうのはイヤだ」っていうけど、なぜ?
病院より家で死にたいって言うけどそれはなぜ?

『価値観』を知ることは、本人に対する理解を深めることができると同時に、予想外の事態が起き、何かを決断しなくてはならない場面になったとき、対応の幅が広がることに繋がります。想定していなかった場面であっても、本人の望む『価値観』に沿う方法・手段を選ぶという形で選択肢が広がったり、また絞り込めたりします。
価値観を知ってもらえている、という思いは家族や医療者などとの人間関係やひいては医療への満足度が上がり、協力関係は強化されます。
そして、それらは本人にとって自分で決めている、自分の人生を自分でコントロールできているという感覚も向上させます。
そういう中での選択や決断の結果は遺族(家族)にとってはその後の抑うつや不満の軽減し、また本人の死に対する納得にも繋がります。


結局は納得が大事

本人の意思を家族や医療者が「共有」できていなかったり、時間と共に本人の想いが「変化」した(ことに対応できていなかった)り、また表面的な希望は知っていても根っこにある、つまり価値観の理解につながるような「理由」や「決定のプロセス」を知らずにいたり、あるいは医療者から十分な「情報提供」を受けていなかったり(これは説明を受けていても受けた側の理解が追いつかない場合や心に落ちていない場合も含みます)、、、
そういったケースは家族が後悔しやすいケースになりがちとのことです。
また、本人が決める能力を失った際の「代理決定人」を決めていない場合も家族の後悔をうみやすくなるようです。
これらの事情が含まれるケースは、つまりは「納得できない何か」が生まれてしまうわけでそのもやもやは往々にして本人への疑問、不信感、家族内の不和、場合によっては医療訴訟や家族だけに収まらない関係者とのトラブルなどを引き起こしがちです。

「結局は 納得 が大切なんです」

価値観を知るために 納得を得るために
ここ何年か、今、自分の人生の終わり方を考え、エンディングノートなどを記しておく「終活」ブームが盛り上がっています。
ただ、エンディングノートは本人にとって「書いて終わり」という個人作業にとどまりがちでなかなか「共有」されません。
本来はエンディングノートを記し、それをきっかけに価値観を探る作業へと進むことで大きな役割を果たすものであるべきです。

また、医療現場では入院時や救急搬送時に「事前指示書」というものへの記載を求められることも増えています。
いわゆる「終末期(ここでいう終末期というのは生命維持処置を行わなければ、比較的短期間で死に至るであろう、不治で回復不能の状態、を意味します)」になったときにどのような対応を希望するか医療に対する希望を書面に残すわけです。
ただ、この「事前指示(アドバンス・ディレクティブ)」の聴取だけを行っても満足度の変化という結果は得られないという調査結果が出ています。

このようにエンディングノートや事前指示書というものが「形」の流行で終わってしまうことで本来それらを使って探る(知る)べき「本人の価値観」にたどり着かないことを熊田さんは危惧しています。

アメリカでは1990年代後半から「アドバンス・ケア・プランニング(Advance Care Planning:ACP)」という取り組みが始まっています。
「将来に備えて、今後の治療・療養についてあらかじめ話し合うプロセス」と定義されています。
話し合いのプロセスを重視することで生き方や、医療の価値観を把握するのですが、嫌がれば話をしないことも許容され、患者が望めば家族や友人も同席するなど話し合い方には決まりはありません。
これまでの経験、病状についての認識、療養や生活の不安や疑問、大切にしたいこと、治療についての希望、代理決定人やその裁量権など様々なことを話し合います。
話し合いの結果は同意のもとで記述され、定期的に見直され、関係者の間で共有されます。
日本ではようやくはじまったばかりです。


価値観の把握の必要性のもうひとつの意味

自身の価値観を自身でも把握し、家族など周囲と共有することは「よりよい最期を迎える」ために大切なことですが、その必要性にはもう一つの側面があります。
厚生労働省の推計では増え続ける高齢者数に医療や介護のサービス提供が追いつかず、2030年に約47万人分の“死に場所”がなくなる、というのです。
2042年には社会保障給付が現在の約3分の1程度に減少する可能性もあると。
それはつまり、現在の日本の医療・介護の特徴である「フリーアクセス」「コストの低さ」が「アクセス不良」「コスト高」になるということを意味します。
そうなると「クオリティ」しか残らないのではないでしょうか。

自己満足で終わらない“終活
この「クオリティ」の評価は自身の「満足度」が尺度になることが多いので自分で自分の医療や介護への満足度を上げる努力をすることが求められます。

医療や介護について「家族がいいようにやってくれるだろう」「悪いようにはされないだろう」という安易な思い込みは危険。
家族だって知らないことだらけです。
結局は「情報」つまり「知る」ことです。
「最期は周りに迷惑をかけたくない」と思っているのならなおさら、情報を集め、情報の精査をし、自分の想いを見つめ、それらを周囲に伝える努力は欠かせません。
そのことが医療や介護への満足度の向上を得、結果的に「よりよい最期」に繋がります。
そうした自己満足で終わらせない“終活”をしていくことが大切なのだと思います。



メディ・カフェ後半は前半の熊田さんのお話を受け、2つのケースについてグループワークを行いました。
1つはご本人はエンディングノートを書いていたにも関わらず、ご家族にはそのことが伝わっていなかったケース。
もう1つはこどものいない夫婦。認知症の妻を単独介護していた主たる介護者の夫が急逝したケース。
それぞれのケースについて、どのようにすればよかったのか、あるいはしなくてよかったのか、またどんな方法があったのか、など、どちらも決まった正解のあるわけではないですが、様々な視点から考えるきっかけを得た時間でした。


「死は1人では完結しない」という熊田さんの言葉。
「ひとは必ず死ぬ」ことは避けられない事実で、そしてその「死」は血縁の有無にかかわらず、「遺される人」が生まれます。
その事実の中で、生きている時間の最期をどのように迎えるか、そこに向かって何をどう知り、考えていくのか、、、
決断を迫られるそのときにではなく、そうなる前に考え始め、共有しておくことが必要なのだと感じました。

(文責:長谷川)